林羅山とは
湯島(下呂温泉)を天下三名泉の一つに挙げた林羅山(一五八三ー一六五七)。江戸初期の幕府の儒官。林家の初祖。名は忠または信勝。のち剃髪して道春と号した。京都の町家に生れ、幼少より書物に親しみ、建仁寺で儒仏を学び、優れた記憶力により頭角を現した。十八歳の時、朱子の集注を読んで朱子学に志し、二二歳で藤原惺窩に師事した。まもなく惺窩の推薦で慶長十年(一六○五)家康に謁し、その信任を得、学問、政治上の諮問に応じ、また古書の収集、出版に従事した。以来、秀忠、家光、家綱と四代にわたる侍講として外交文書や諸法度の起草にあたり、特に教学制度の確立に寄与するところが多かった。寛永七年(一六三○)、幕府より土地と資金を与えられ上野忍が岡に学問所を建て、ついで同地に徳川義直より聖堂(孔子廟)を寄贈され昌平黌の起源をなした。幕命によって「本朝編年録」四十巻を編集、のちに子鵞峰により完成され「本朝通鑑」となった。
林羅山の書いた三名泉
万里集九は三名泉を草津・有馬・湯島の順序に置いたが、羅山は有馬・草津・湯島の順序で置いた。
これは有馬に入湯しての書であるゆえに順序が変わっている。もしも湯島に入湯していれば、
湯島が第一にあげられたはず。羅山先生、なぜ湯島にお越しにならなかったかと四百年前を惜しまずにはいられない。
下呂、白鷺橋上の林羅山像
92年4月25日に白鷺橋上で林羅山の銅像の除幕式が執り行われた。高さ160センチ、重さ200キロ。
1989年度に町の宿泊客が年間150万人を超えたのを記念して建立された。子孫の林智雄さんによると、羅山の銅像は全国でもここだけであるという。家康から4代の将軍に仕えた羅山は、一片の詩文によってここに像となる。
新宿区市谷山伏町の「林氏墓地」
国の史跡にも指定されている東京都新宿区市谷山伏町の「林氏墓地」は毎年十一月に一般公開されている。現地解説は新宿歴史博物館によって一日四回ずつ行われる。墓地がある市谷山伏町には、かつて林家の別邸があった。約三百六十平方メートルの敷地の中に羅山をはじめ代々の当主とその家族らの墓約八十基が残る。これらの墓石の中の四基は、儒葬と呼ばれる儒教の礼式に従った埋葬様式で、門柱のような石柱を墓石の前に立て、後方には木を植えるという極めて珍しい形態の墓となっている。
新宿区はこの墓地を、林家から購入し、毎年一般公開、入場無料。